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​平和の旅へ合唱団・長

渡辺千恵子物語2-2

​渡辺千恵子さんは自分の人生を、四つに区切って話していました。

 

 ★第一の人生は 生まれてから被爆まで

 ★第二の人生は 被爆から第二回世界大会で発言するまで

 ★第三の人生は 世界大会での発言から車いすに乗るまで

 ★第四の人生は 車椅子から平和の旅を続けるまで

★第三の人生 世界大会での発言から車いすに乗るまで(2

​片岡ツヨさんのこと

渡辺千恵子被爆証言片岡ツヨさんのことArtist Name
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 ★1959年1月 油屋町から音無町へ引っ越し、次兄家族と別れて母との二人暮らしになる。翌日から身体の不調で入院、以後5年ほど入退院を繰り返す

「低血素性貧血、下半身不随症」により「原爆症」に認定される

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​★1960年 安保闘争の中で

​「私の一票が、私の毎日の暮らしと幸せのために、そして日本の未来のためにどんなに大きくひびくか、このたびの安保条約の改定で、かってない関心を寄せているものです。このコースはいつかきたコースにつながり、そして原爆で下半身を奪われ、原爆の脅威を、肉体的にも精神的にも深く刻み付けられているだけに、私は安閑と寝ていられない気持ちです。」

​初めての投票

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​★1973年最初の著書「長崎に生きる」を刊行

★自身も被爆者である母スガさんが、体の衰えを見せ始めて千恵子さんは自立への道を模索始める

★1976年 春・車いすに座れるように両足のアキレス筋を切断し、ゆがんだ脊椎を削って矯正する大手術を行う。

     12月長崎総合科学大学・日比野正巳助教授に、自立に向けた新しい家の設計を依頼する。

(渡辺千恵子さんは当初、車いすに乗ることに難色を示したということです。それは「自分は原爆によって下半身不随にされてしまったけれども、車いすに乗るということは自分が障碍者であることを自ら認めることになる、それが納得できない。」ということのようでした。)

★1977年8月9日 長崎市平和祈念式典で車いすに乗り被爆者代表として「平和の誓い」を読む

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