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​平和の旅へ合唱団・長

渡辺千恵子物語2-1

​渡辺千恵子さんは自分の人生を、四つに区切って話していました。

 

 ★第一の人生は 生まれてから被爆まで

 ★第二の人生は 被爆から第二回世界大会で発言するまで

 ★第三の人生は 世界大会での発言から車いすに乗るまで

 ★第四の人生は 車椅子から平和の旅を続けるまで

★第三の人生 世界大会での発言から車いすに乗るまで(1)

​1956年8月9日 第二回世界大会(長崎)発言 感銘を与える

1958年8月 東京都体育館で開催された第4回世界大会に参加発言

1964年8月 第10回世界大会に参加し発言 前年に部分的核実験禁止条約への支持をめぐって分裂した、原水禁運動、渡辺千恵子さんは日本原水協の立場を断固として堅持し、運動の分裂に「怒りと悲しみ」を表明して、原水爆禁止運動へのより一層広人々の結集を呼びかけ、参加者を励ました。

​★原水禁世界大会・京都 で平和行進に参加

第10回世界大会京都 平和行進1 (2).bmp
第10回世界大会京都 平和行進1 (3).bmp
運動の分裂と原水協Artist Name
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1965年8月、第11回世界大会・国際会議 に出席 特別報告を行う

1966年8月 第12回世界大会は長崎大会にだけ参加、

 

以降 

1967年・1968年・1969年 毎年長崎大会に参加し訴えを続ける

1970年8月 第16回世界大会・国際予備会議(東京) に参加して発言

発言の末尾部分

「もしわたしに、母に、なお生きて残る幾歳月があたえられるとするならば、”核兵器のない世界”大量殺りくのない世界”のはじまりを告げる長崎の鐘を聞きたいと願います。

 わたしはごらんのとおり、ひとりではどこにも行けない身体です。しかしわたしは核兵器のない世界には這ってでもまいります。

 世界中のみなさん!

 平和と原水爆禁止を願う運動を統一し、核兵器のない世界を一日も早くつくりましょう。

 わたしはその日まで、なお生き続け、皆さんとともにたたかいたいと願っています。

核兵器にない世界に生きましょう。」

1972年8月 第18回世界大会 長崎に参加 発言

1973年8月 第19回世界大会(17年ぶりの長崎本大会)に参加

分裂策動とのたたかい

政府と一部反動的な勢力は被爆者と世界の多くの平和を愛する人びととともに、原水爆禁止を訴え、被爆者の援護法を要求するたたかいにたいして、これを分裂させ、力のないものしようと策動を続けてきました。

被爆地、長崎においては、いまふたたび被爆者の団体にあらたな分裂の攻撃がかかってきています。一部の被爆者が権力と手を結んで、被爆者を平和運動に背を向けさせる行動をしているのです。このことは、とりもなおさず戦争政策にに被爆者を協力させる役割を果たすことであり、私はこのような行動を決して許すことはできません。

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