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​平和の旅へ合唱団・長

渡辺千恵子 物語3-2

​渡辺千恵子さんは自分の人生を、四つに区切って話していました。

 

 ★第一の人生は 生まれてから被爆まで

 ★第二の人生は 被爆から第二回世界大会で発言するまで

 ★第三の人生は 世界大会での発言から車いすに乗るまで

 ★第四の人生は 車椅子から平和の旅を続けるまで

★第四の人生 車椅子から平和の旅を続けるまで(2)

​★1985年3月15日、「平和の旅へ」作品つくり録音取材を受ける。

★私たちは創作上の相談や、初演に千恵子さんを招待しようと考え、連絡を取ろうとしましたが、この時期千恵子さんは、私たちの前から忽然と姿を消し、私たちの目から見ると行方不明の状態になってしましました。初演に千恵子さんを招待することはかないませんでした。

 渡辺千恵子さんは、5月に再生不良性貧血との診断を受け面会謝絶で入院治療を繰りかえす状態だったのです。

​ 以後この苦しい治療を繰り返しながら、かたわら修学旅行生などに、車いすで語り部の活動をつづけました。

うたごえ祭典などへの参加

★1988年8月6日 「長崎国際平和コンサート」、に向けて「平和の旅へ」のオーケストラ版への編曲が行われ、九州交響楽団有志と長崎交響楽団有志による、オーケストラ伴奏で、守屋博之さんの指揮で演奏。

★1998年9月4日 「全国自治体のうたごえ長崎祭典」でも同じ編成での演奏が行われた。この時の渡辺千恵子さんのあいさつの音声データが残っていました。

(この「全国自治体のうたごえ長崎祭典」に渡辺千恵子さんとご親族を招待し、千恵子さんに初めて生演奏による「平和の旅へ」の全曲を聞いてもらったのです。

自治体のうたごえ長崎祭典1Artist Name
00:00 / 00:42

★「自治体のうたごえ長崎祭典」への参加のお礼に園田鉄美さんと二人で伺ったのはたしか、入院中の長崎大学病院だったと記憶しますが、そこで「この歌が私に代わって被爆体験を伝えてくれる、うれしい」という言葉をもらったように思います。

 そして千恵子さんの親族が初めてこのような集会に参加したことについても「嬉しかった」と話されました

​次兄の渡辺廣志さん一家が家族ぐるみで千恵子さんを支え続けます。

​★1989年11月、日本のうたごえ京都祭典に自らナレーションを担当して平和の旅への演奏に参加

​渡辺千恵子ナレーション

1989年京都1-1Artist Name
00:00 / 02:27

​渡辺千恵子ナレーション

1989年京都2-1Artist Name
00:00 / 00:43

​娘よ

1989年京都2-2Artist Name
00:00 / 03:29

平和の鐘を鳴らそう。

平和の鐘を鳴らそうArtist Name
00:00 / 04:12

★1991年2月 合唱団「ながせん」・国鉄広島ナッパーズ ジョイントコンサート (広島フェニックスホール)へのメッセージ

ヒロシマへのメッセージArtist Name
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