「平和の旅へ」合唱団・長崎
私たちはコーラスによる被爆の語り部です
私たちは、車いすの語り部として知られる 長崎の被爆者・故・渡辺千恵子さんの遺志を受け継ぎコーラスによる被爆の語り部として「渡辺千恵子」さんの被爆体験を歌い続けています
もしわたしに、母に、なお生きて残る幾歳月が与えられるとするならば、”核兵器のない世界””大量殺りくのないせかい”のはじまりをつげる長崎の鐘を聞きたいと願います。私はごらんのとおり、ひとりではどこにもいけない身体です。しかしわたすは核兵器の無い世界には這ってでもまいります。
1970年第16回原水爆禁止世界大会国際予備会での発言から
長崎への修学旅行での平和学習に、団体旅行の被爆体験学習に、お役立てください
上演依頼
随時合唱団員を募集しています。あなたも歌う語り部になりませんか
合唱団員募集
2017年7月7日国連で84か国が署名して採択された、「核兵器禁止条約」は、2020年
10月24日50か国目となるボリビアが批准を行い。2021年1月に発効することになりました。
2020年6月現在、批准国は62か国となっています。
このホームページにおける 渡辺千恵子著「長崎に生きる」からの引用は、著作権後継者であるご遺族の「千恵子さんの遺志を生かすのであれば、自由に使ってください」という了解によっています。
平和の旅へ合唱団・長崎
渡辺千恵子さんは自分の人生を、四つに区切って話していました。
★第一の人生は 生まれてから被爆まで
★第二の人生は 被爆から第二回世界大会で発言するまで
★第三の人生は 世界大会での発言から車いすに乗るまで
★第四の人生は 車椅子から平和の旅を続けるまで
★第二の人生 被爆から第二回世界大会で発言するまで(1)
<孤独の10年>
被爆直後の渡辺千恵子さんを診察した医師は「これは助からない、治療法もない。」と言って何の手当も施すことが出来ないほどの状態でした。
母親のスガさんはそれでも何とか助けようと必死の看病を続けます。
「母は被爆後の三年間くらいは、帯を解いて寝たことがなかった」と千恵子さんは語っています。
兄弟たちもまた「千恵子さんだけは」と熊本あたりまで野菜の買い出しに行ったりして協力します。こうして何度もの命の危機をくぐり向けて、いのちを繋ぎます。
何とか生き延びることは出来たものの、青春も生きる希望さへも奪われて、灰色の孤独な生活の中で次第に心も荒んでいき、わずかなことでも母親に当たり散らすなど、必死に看病してくれる母さえも苦しめます。
「千恵子だけは死なせたくない」という母の一念が、現代の医学を超える力となった、と渡辺千恵子さんは述べています。
<仲間とともに>
1954年、長崎市の調査を通じて、毎日新聞が千恵子さんのことを報道し、社会的に知られるようになります。
1955年6月5日 第一回長崎県母親大会に参加した・居原貴久江・鶴見和子・の訪問を受けます
原爆乙女4人(堺屋照子・山口美佐子・辻幸江・溝口キクエ)が枕元を訪ねてくる、千恵子さんと親交を深めあう中で、初めての被爆者組織「長崎原爆乙女の会」を立ち上げる
広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれるというニュース、二人の代表を派遣する。
全国から被爆者を派遣してほしいという要請が来るようになる
最初の要請は長野県からだった。「原水爆禁止長野県大会に3名着てほしい」ということだった。
この時乙女の会だけでは都合がつかず、山口仙二さんにお願いしたのです。
山口仙二さんは、あいさつで「長崎原爆乙女の会の山口仙二です」と言ったというエピソードが残っています。
長崎へ帰った山口仙二さんは早速「長崎原爆青年の会」を立ち上げます。一年も経たずして
(青年)と(乙女)は合併し「長崎原爆青年乙女の会」として活発な活動を始めていきます。
またこれが「長崎原爆被災者協議会」の結成「日本被団協」の結成へと繋がっていくのです。
{この時期の壮大なドラマは、是非 渡辺千恵子著「長崎に生きる」で詳しく読んでいただきたいと思います。}
¥孤独な灰色の生活を送っていた渡辺千恵子さんは、仲間を得て、海水浴に出かけたりミカン狩りに出かけたり。失っていた青春を取り戻します
こうして第二回原水爆禁止世界大会を長崎で迎える、ということになったのです