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​平和の旅へ合唱団・長

​若者たちへのメッセージ

渡辺千恵子物語1-1

​渡辺千恵子さんは自分の人生を、四つに区切って話していました。

 

 ★第一の人生は 生まれてから被爆まで

 ★第二の人生は 被爆から第二回世界大会で発言するまで

 ★第三の人生は 世界大会での発言から車いすに乗るまで

 ★第四の人生は 車椅子から平和の旅を続けるまで

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★第一の人生 生まれてから被爆まで

 1928年9月5日 長崎市銅座町で履物問屋を営む父・健次、母・スガの5女として生まれる

 兄が二人、姉が四人(三番目の姉は2歳で病死)弟が一人の八人兄弟。履物問屋だったので番頭さんをはじめ、大勢の使用人に囲まれて育つ。

 小学校の頃は、かけっこが得意で運動会ではいつも賞をもらうほどのスポーツ少女であった。

 長崎っ子らしくお祭り大好きで、おくんちや正月には普段はもらえないお小遣いをもらって、大好きなシュークリームを食べるのが楽しみであった。

 また「欲しがりません勝つまでは」とか「撃ちてしやまん」などの軍国主義の教育を受けて・軍国少女・であったと語っていた。

 1940年 父 健次 他界 母スガは女手一つで6人の子どもを育てる。

​ 1943年次兄が兵役で満州へ出征 1945年一月長兄が5年の兵役を終えて満州から帰国 三菱製鋼所に勤務

 千恵子さん自身は当時通っていた私立鶴鳴女学校から学徒動員されて、三菱電機製作所で働いていた。

 1945年8月9日 被爆 爆風によって崩れ落ちた工場の鉄骨の下敷きとなって下半身を打ち砕かれ、下半身不随となって防空壕へ収容される。 

 長兄は三菱製鋼所で爆死する。母・スガさんは、千恵子さんの看病の傍ら、製鋼所のがれきの中を探し回り、2週間後に焼けたトタンの下から長兄のベルトのバックルを発見し遺骨を拾い集めた。

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