★渡辺千恵子さん永眠
1993年1月下旬聖フランシスコ病院の病室に、近所の農家からいただいた伊予柑をもって見舞いに尋ねた。
「美味しそうね,剥いてよ」というので剥いてあげたがほんの少しだけ口にした。
とりとめもない世間話の合間にふと千恵子さんが「私のお葬式では平和の旅へを歌ってね、お願いよ長野さん」と言ったのである。
この時私がどのように反応したのかについては、記憶が定かではない、でもこの言葉を心に深く刻んだのは間違いない。
1993年3月11日勤務を終えて、長崎市内での会議に参加していた私の携帯のベルが鳴った、被爆者相談員の横山照子さんからだった「千恵子さんがいよいよ危ないわよ」というものだった。
会議を終えてバイクを走らせて病室へ駆けつけた、親族が「長野さんが来たよ」と千恵子さんに声をかけながら案内してくれ、促されて枕元に行き、すでに意識混濁の状態の千恵子さんの手を握りながら耳元に「よう頑張ったね!」と声をかけた、心なしかその手を弱弱しく握り返してくれたように感じた。
1993年3月13日千恵子さんは信頼していた秋月辰一郎さんが院長を勤める聖フランシスコ病院で核兵器の禁止と世界平和を求め続けた63年の生涯を閉じ永眠した。
渡辺千恵子さんの葬儀は、1993年3月20日 長崎市の斎場で行われました。喪主は千恵子さんの生活を家族ぐるみ支え続けた次兄の渡辺廣志さん、葬儀委員長は山口仙二さん、国内外から200通を超える弔電が寄せられ、500人余を超える参列者でした。長崎県知事・県議会議長、長崎市長・市議会議長、の弔辞、日本被団協、日本原水協、青年乙女の会の代表の弔辞。
渡辺千恵子さんがいかに幅広く多くに人に尊敬されていたかを、まざまざと見る思いでした
渡辺千恵子さんの葬儀にふさわしく参列者全員が考え方や立場の違いを超えて、核兵器の完全な禁止と廃絶、被爆者完全援護法 の制定に向けて誓いを新たにする機会となりました。
そして「平和の旅へ」のフル演奏による献奏を行いました。
「私のお葬式では歌ってね、長野さんお願いよ」と千恵子さんに言われていた約束は、果たせました。
実はこの日の演奏の実現には大きな困難がありました。合唱の男声のほとんどを担っている「合唱団ながせん」が大阪の国鉄のうたごえサークルと、ジョイントコンサートを大阪で開催することが、早くに決まっていて、この日は男声のほとんどが不在という状況だったのです。
九州各地のうたごえ合唱団に窮状を訴えたところ、福岡をはじめ駆けつけてくれて、実現にこぎつけたのです。
この日の演奏を聴いたNBC長崎放送局の宮本圭子さんが、ぜ「ぜひCDに」という提案をされ、新たな録音によるCD化が実現しました。
渡辺千恵子さん精霊流し
1993年8月15日
渡辺千恵子さんの精霊船制作は、8月9日の原水爆禁止世界大会が終って、それまで忙しかった長崎原爆青年乙女の会の会員や、青年ボランティアの手によって、長崎被災協ビルの前の路上の脇で行われた。骨組みに千羽鶴を飾り付けて、立派に出来上がった。
8月15日精霊流し当日は、喪主の 次兄 渡辺廣志さんとそのご一家 青年乙女の会を中心にゆかりの人びとが、思いそれぞれに、千恵子さんを送った。
精霊流し責任者を青年乙女の会の山口仙二さんがつとめ、花火責任者は谷口 稜曄さんが担当した。
印灯篭には・平和・千恵子 の文字が浮かび、船体には「核戦争起こすな平和を守れ」と大書、反対側には「被爆者援護法を今すぐに」の大書、船腹には千羽鶴でデザインされた平和のシンボル・鳩・、
長崎新地中華街にある次兄廣志さんが引き継いでいる、渡辺履物卸問屋の店の前から大波止の流し場まで、船体に仕込んだスピーカーから「平和の旅へ」の音楽を流しながら道中を進んだ。
まさに精霊船で送られる時でさへ「核兵器禁止」「被爆者への援護」、原水爆禁止運動の二つの共通目標を人びとに訴え続けた渡辺千恵子さんであった。
写真家の黒崎晴生さんによれば、委任者をつとめた山口仙二さんは皆さんが帰った後も一人残って遅くまで手を合わせていたということです。