被爆直後の渡辺千恵子さんを診察した医師は「これは助からない、治療法もない。」と言って何の手当も施すことが出来ないほどの状態でした。
母親のスガさんはそれでも何とか助けようと必死の看病を続けます。
「母は被爆後の三年間くらいは、帯を解いて寝たことがなかった」と千恵子さんは語っています。
兄弟たちもまた「千恵子さんだけは」と熊本あたりまで野菜の買い出しに行ったりして協力します。こうして何度もの命の危機をくぐり向けて、いのちを繋ぎます。
何とか生き延びることは出来たものの、青春も生きる希望さへも奪われて、灰色の孤独な生活の中で次第に心も荒んでいき、わずかなことでも母親に当たり散らすなど、必死に看病してくれる母さえも苦しめます。
「千恵子だけは死なせたくない」という母の一念が、現代の医学を超える力となった、と渡辺千恵子さんは述べています。
<仲間とともに>
1954年、長崎市の調査を通じて、毎日新聞が千恵子さんのことを報道し、社会的に知られるようになります。
1955年6月5日 第一回長崎県母親大会に参加した・居原貴久江・鶴見和子・の訪問を受けます
原爆乙女4人(堺屋照子・山口美佐子・辻幸江・溝口キクエ)が枕元を訪ねてくる、千恵子さんと親交を深めあう中で、初めての被爆者組織「長崎原爆乙女の会」を立ち上げる
広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれるというニュース、二人の代表を派遣する。
全国から被爆者を派遣してほしいという要請が来るようになる
最初の要請は長野県からだった。「原水爆禁止長野県大会に3名着てほしい」ということだった。
この時乙女の会だけでは都合がつかず、山口仙二さんにお願いしたのです。
山口仙二さんは、あいさつで「長崎原爆乙女の会の山口仙二です」と言ったというエピソードが残っています。
長崎へ帰った山口仙二さんは早速「長崎原爆青年の会」を立ち上げます。一年も経たずして
(青年)と(乙女)は合併し「長崎原爆青年乙女の会」として活発な活動を始めていきます。
またこれが「長崎原爆被災者協議会」の結成「日本被団協」の結成へと繋がっていくのです。