★第二の人生 被爆から第二回世界大会で発言するまで(2)
★戦後初めての外出
1956年3月9日、渡辺千恵子さんは戦後初めて自宅を出て、長崎市内を見学します。
前年の1955年に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会の決議に従って、被爆者の記録映画「広島・長崎・生きていてよかった」の撮影のために渡辺千恵子さんの家を訪ねた映画の撮影クルーが「終戦から10年後の長崎は変わったでしょうね」と言った千恵子さんの言葉に心を動かされて、監督であった亀井文夫さんが、市議会議長の車を借り受けて、渡辺千恵子さんを被爆後11年目にして、初めて外に連れ出したのです。
爆心地のまだ壊れたままの浦上天主堂、長兄が爆死した長崎製鋼所、長崎市内、自分が被爆した三菱電機、などを見学します。
三菱電機を見学したときに海上に浮かぶ護衛艦「はるかぜ」が目に留まります。非常に不気味に見えた千恵子さんは、映画監督に「あれは何の船ですか?」と尋ねたところ「あれは保安隊の船です」との返事ををもらい、身体がわなわなと震えだし、激しい怒りに襲われます。
このころの日本の再軍備の話については、後で追加したいと考えます
1956年8月 第二回原水爆禁止世界大会
母・スガさんの手記
「 八月 原水爆禁止世界大会が長崎でもたれることになりました。そして千恵子はこの大会に長崎の代表としてえらばれたのです。
千恵子はこのことでずいぶん心をいためていたようでした。昼間はあまり元気がなく、夜も寝返りばかりして寝付かれないのです。わたしも、”被爆者はたくさんいるのに、よりによって下半身不随のこの娘を見世物にするとは”とまでも思いました。大きな会議場で話すことはおろか、人の前でろくに口もきけない千恵子の胸の中が、母親の私には手に取るようにわかるのです。でもよく考えてみますと、それは狭いひとりよがりな考えのようにも思われてきました。十年間、私たち親子が味わってきた苦しみ、そしてわたしたちよりももっと貧しくもっとつらい思いで苦しんでいる被害者のことを考えると黙ってはいられなくなりました。やはりこの機会に訴えなければ、いつどこで訴えることが出来るのでしょう・・・・・・
(第二回原水爆禁止世界大会の会場で、千恵子が発言する時がきました)
わたしは、張りつめていた気持ちがいっそう緊張して胸がどきどきしました。昨夜から一滴の水分もとっていない千恵子の口をあわてて氷水でしめしてやり、しっかりと抱いて立ち上がりました。カメラのフラッシュで何も見えず、やっと係の人の手を借りて壇上へ立つことが出来ました。私も千恵子も身体がぶるぶる震えるのをしっかりと抱きあっておりました。
”私は長崎原爆青年乙女の会の渡辺千恵子と申します”
千恵子は案外落ちついてしっかりとした言葉で話し続けます。これが二、三年前まであれほどいがみいじけた私の千恵子なのだろうかと思ったほどです。
幾度も声を詰まらせながら、千恵子は必死に訴えました。”千恵子ガンバレ、千恵子しっかり、世界中の人が聞いているんだよ、私たちの苦しみは私たちだけでたくさんだよ、。どうか苦しみ悲しみを訴えておくれ”こう念じながら私はますますしっかりと千恵子を抱きしめました。
原爆への底知れぬ怒りをマイクを通して、泣きながら、しかし立派に、切実に訴えた千恵子の言葉は集まった三千名の心にこだましたのか、ワ~っと会場もわれるような拍手の音に私は千恵子のあいさつが終ったのを知りました。ついにわたくしども親子のねがいである平和の叫びを訴えることができました。
千恵子を支えているのは、けっしてしなびたわたしの手ばかりではなかった。わたしたちの手は
世界の人にもつながっているのだと心からのよるこびに、いつのまにか私も涙を流し、しっかりと千恵子と抱き合っていました。」
その時のその喜びは!それまで私の中に潜んでいた、ひねくれも、虚無も、絶望も、どこかへにげだしてしまって、私は初めてじぶんの生きがいというものを見出すことができたんです。
この第二回世界大会での発言をきっかけに、渡辺千恵子さんはこれまでとは全く違う、新しい第三の人生を歩き始めます。